講師
1981年生まれ
名古屋市立工芸高等学校デザイン科卒業
幼いころ、外遊びが苦手で色鉛筆を使ってイラストを描いたのが絵を始めたきっかけ。
中学ではART部に入部し顧問の勧めで油絵セットを買い静物画を描いてみる。
高校は名古屋市立工芸高等学校デザイン科に入学

| 1999年 | 名古屋市立工芸高等学校 デザイン科卒業 |
|---|---|
| 2021年 | 第四十回日現記念展併催 |
| 2022年 | 第四十一回日現記念展併催 一般入選 |
2022年 | 黒沼先生主催のNACへ入会 |
| 2022年 10月 | 鋸山アートフェア、大規模グループ展に出展 |
| 2023年 2月 | 絵画教室アトリエゆんゆんを開講 |
2023年 8月 | ホテルグランドニッコー台場、大規模グループ展に出展 |
2024年 2月 | 色躍る3人展、イクジーノカフェにて出展 |
2024年 | 第17回プラチナアート大賞展2024 上位入選(日展会館展示) |
| 2025年 5月 | 第18回プラチナアート大賞展2025 上位入選(日展会館展示) |
1981年2月 名古屋市でごく普通の会社員とパートタイマー兼主婦の間の一般的な家庭の二人姉妹の長女に生まれる。
三歳の頃、私は外で遊ぶことが少し苦手な子どもだった。
同年代の子が鬼ごっこに夢中になる中、私は部屋の隅で色鉛筆を並べ、黙々と絵を描いていた。
サンリオの“キキララ”の配色が、とにかくかわいくてたまらなかった。
お姫様はピンク、王子様は水色――そんな色の世界を、小さな紙いっぱいに広げていた。
豪華なお城の食卓にも強い憧れがあった。
天井には大きなシャンデリア、テーブルにはステーキやホールケーキがずらりと並ぶ。
人物こそ描かなかったものの、構図は「最後の晩餐」を思わせるような横長の形。
今思えば、アニメ『食戟のソーマ』のエンディングにも似ていたかもしれない。
小学三年生のとき、私は“デッサン”という概念を初めて知る。
その瞬間、ノートはあらゆる観察の対象でいっぱいになった。
月夜の風景、夕食に出てきた食べかけの豚テキ――目に映るものを、とにかく描かずにはいられなかった。
将来の夢の欄には、ためらいなく“画家”と書いた。
三年、四年と続けて夏の生活の表紙絵で佳作に選ばれた。
そのことは、子どもながらに大きな誇りになった。
だが、高学年になる頃、私は陰湿ないじめに遭い、コミュニケーションに自信を失っていく。
その反動のように、絵で自分を表現することがますます必要になっていった。
中学の教科書で巨匠たちの名画と出会ったとき、胸の奥に火がついた。
「いつか、私もこんな写実画を描けるようになりたい」
美術の成績は常に4か5だった。4のときは必ず美術史のテストがあったときだ。(笑)
中学ではArt部に入り、顧問の先生に勧められて油絵セットを買った。
初めて描いた静物画は、今でも大切に残してある。
中学三年の写生大会では、同じ区内の農業文化園のとても美しく咲く、チューリップ園を描いた。だが、時間内では完成にしたくなく、帰宅後、家に持ち帰り、何時間もかけて完成させた。結果、金賞を受賞した。
高校は名古屋市立工芸高等学校のデザイン科に合格した。倍率は六・一倍。
娘を画家にしたいという密かな憧れを持っていた父は、嬉しさのあまり親戚中に自慢していた。
しかし私はというと、親友の真似をしてルーズソックスを履く“ギャルもどき”でもあった。(笑)
若い頃の集中力は、今思えば異様なほどだった。
七人の動きのある人物を瞬時に観察して特徴をつかみ、そっくりの似顔絵にしてプレゼントしたこともある。
高校時代、いくつかの作品を残した。作品の一つは、何十時間もかけたと記憶している。
美大への進学を希望したが、金銭的な事情から断念することになる。
卒業後、斡旋された正社員の職を五か月で辞め、
その後は“フリーター”という言葉に妙な憧れを抱きながら短時間のバイトを転々とした。
二十二歳で結婚。
生活が落ち着くと同時に、心も少しずつ穏やかになったのか、
私は再びアクリル絵の具などの画材を買い集めるようになった。
そして、時代の流れに乗りペンタブを購入。
気づけば、デジタル絵だけで五百枚以上描いていた。
絵を描くことは、いつの時代の私にとっても、
“自分を取り戻す場所”であり続けている。
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